更新日:2020-09-08 仏教真理成仏歴劫修行即身成仏色即是空空即是色

保留にしてきた矛盾点が明らかに

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
保留にしてきた矛盾点が明らかに

保留にしてきた矛盾点が明らかに

矛盾にしか思えなかった教えを

セドナ・カセドラルロック(2011年撮影)

仏教の教えの中で、○○と△△と並列して登場するのですが、
実は、同時にどうしてそれが存在し得るのだろうかと、自分には矛盾点を感じてしまうような時がありました。

当時、宗教家であった私にとって教団を去り、仏教の教えそのものも封印、手放してみてから、改めて、違った観点から深い理解と、附に落ちる経験がありましたので、そんな点を書き進めて参ります。

それでは、今日もよろしくお願い致します。

悟りへの間違った認識で突破できない現実

眠っている意識、目覚めている意識と共に

私は、過去人間的経験を繰り返してゆくプロセスの中で、いかに目覚めた意識(仏陀)になれるのだろうかという考え方しかできませんでした。
別の言い方をすれば、人間である凡夫(私)が、菩薩の境地を経、仏の智慧・境地をマスターできるにはどうしたらいいのだろうか?

仏教とは、「仏(仏陀・釈尊)が説かれた教え」と言われていたり、「仏になるための教え」と言う表現で説明をされたりしています。

ですので、基本的にもうスタート地点から絶対挫折の道から歩み始めてしまっていると言う認識が一切ありませんでした。

ある理想とする境地に至るために、修行・精進を経て、素晴らしいものの見方・考え方をマスターするんだと言う一方的な視点しかありませんでした。だって、その視点でしか学んだこともなく、また、それを学んでいる人たちの中から、ちゃんと克服できた、達成できた、マスターしたと言う姿を見ることすらありませんでした。

今の私には、笑い話としてして紹介する言葉があるのですが、昔々、私が学んだ仏教を学び、実践する心構え、姿勢としてこんな考えでやりなさいと言うものがあったのです。(おそらく現在もあると思います。)

「精進、精進死ぬまで精進、生まれ変わっても、さらに精進」
(若干、表現が違ったりする場合もありますが、似たり寄ったりの表現が何も不思議もなく説かれていたりします。)

正直、その考え方はとてもとても好きになることはできませんでした。
私がやりたくて情熱を感じて、やること、やり抜くこと、やり遂げることという
「志」あることは、自主的に、主体的に、創造的にやりますよ。
誰かに何かを言われなかったとしても…。

だって、それが私のやりたいこと、情熱そのものなので…
結果的に第三者から、先程のスローガンのようにやってますねって、仮に言われたとしても、私はやり続けられること、やり遂げることは、やはり、自分が本当に人からの強制ではなく、自分がやりたいからやるっていう姿勢を貫いてきました。

それらは、人から強要されるものではありません。誰から命令されて何かを課してやるものでもありません。
「戒」という印籠を掲げて、自分以外の誰かに強要している人たちを見るたびに、
「私は他の人にはやる気を起こさしめることができなければ、絶対あれこれと指導や命令をすることは絶対にしまい。」と、心の中で決意して、
後輩たちには絶対にその立ち振る舞いをすることはありませんでした。

困難な状況、解決不可能な条件、普通であれば諦めたくなるようなハードル…
そう言った修羅場や火事場というものに、私は触れれば触れるほどに、私こそはそれが成し遂げられるという証拠と実績を挙げて、誇らしげに、自画自賛をしていたことも多々ありました。

もちろん、何にもできないよりは、できた方がいいですし、何か形になるものを人ともに協力して作り上げてゆくことは素晴らしいことであるとも言えましょう。

しかし、あれができた、これを達成したという実績も、多少は、私という存在への自信につながることにはなりましたが所詮は、砂上の楼閣に過ぎません。
夢の中の水の泡、幻想の世界の蜃気楼のようなもんです。

宗教家の実績としていろいろな経験、成果というものを経ながらも、自分自身の中から蠢いてしまう、本当の悟りへの境地を求める私が至るところからうずうずとし出しました。

業務遂行、任務達成、求められている課題へプロとして参画し、解決を遂げてゆくという経験は、どうしても、私の本心からみれば、単なる経験値が浅く、満足度があまりにも低く感じて仕方がありませんでした。ただ単に無味乾燥な経験が増えてゆくのみで、悟りが深まる、極まるような醍醐味や面白さを味わえることが本当に少なくなっておりました。

もちろん、日本における宗教界でも巨大な組織でしたので、信者数、資金を豊富に持ち合わせている善良な人たちが集まっている共同体でしたので、そこから私が抜けて、何かをするんだという方向転換への決断を迎えるまでには、入職後約16年という月日を経なければなりませんでした。

私の観点や経験値がまだまだ浅く、真実を見抜けるだけの力量、人格、経験則が足りていないと思いながら、まずは求められている役割を果たしながら、実力をつけてゆくためにキャリアアップをしてゆくしかないのだろうと、思いながら、業務遂行を人の2倍3倍という意識で、頑張ってやり遂げてきた経緯があります。

けれども、教団中枢にいるクラスの人たち、または著名な宗教家として存在している人たちの立ち振る舞いを見てみても、ますます私は魅力を感じることがなく、やっぱりここでは限界しかないんだ。でもその場所以外にどこがあるだろうか?と悶々としながらも、次に何か自分が進み出せる道のりを模索していたのです。

2011年3月10日、いろんな出会いと経験を経て、「地球に今までの延長線上の人生を送るのではなく、新しい自分へと変わりなさい」と促された途端、3・11が起こり、
私は本気で覚悟して、ほんの少ない貴重品とキャリアケースを片手に、単身東京へと旅立ったのでありました。

本当にあの時、後ろから押されたような現実を私が作り出して、動き出してみて、本当に良かったと思えてなりません。

矛盾に感じる、観じる私を観てみましょう

歴劫修行と即身成仏

「りゃっこうしゅぎょう」と「そくしんじょうぶつ」という読み方をします。
これは、妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十に出てくる教えです。

簡単に説明をしますと

生まれ変わり死に変わり輪廻転生を経て悟る道、
今世においてこの身のままに悟りを得て仏になれる道

ということです。

今のままの私が成仏できる。
生まれ変わりながら段階を経て成仏する。

この二つの観点はどのように咀嚼すればいいのか、皆目見当もつきませんでした。

あたかも、匍匐前進をしながらゴールへ行こうとする道のりと、一気にヘリコプターに乗ってゴールに至っているという道が同時に存在できるって、ただただ私の思考では、到底想像もつけることができず、とりあえず、矛盾点は無理に解き明かせないから、しかるべき時まで、全て保留と、してきた教えの一つであります。

おかげさまで、私というアイデンティティーを再構築することができました現在の私にとっては矛盾も疑問も、一切ありません。

なぜならば肉体レベルの眠ってきた私が目覚めてゆくという経験を経てからは、すでに、私は悟りを経た報いによって肉体を超えた存在として意識として「何かある」という私がいることも理解できました。

眠ってきた肉体の「私」は、ほんの一部分でしかありません。
肉体のない次元の私、悟ったからこそ至っている非物質的な「私」。
そして、その肉体、非物質的な私の両方をあらしめている存在以前の「それ」…

それらいずれも私なんです。同時に存在していることが明確に理解できましたので、何の疑問も矛盾もございません。

粛々と、私が私との関係性を健全に、肯定的に構築してゆけさえすればいいだけのことです。

私が、一見多重に人格性を持っているが如く、種々さまざまな私があろうとも、それらの私を、私が向き合い、理解し、共に生きてさえいければ
本当にいいだけのことだったと、とてもシンプルに今の私は実感しております。

肉体レベルの時空間を思考の檻として不自由さを体験する次元では全く見えてこなかった領域をも観ることになり、今の私はとても自然にいろんな側面の私と共に、歩んでいられていることが素直にうれしいばかりです。

それでは、今日もありがとうございました。
また、近いうちに、このコラムにてお愛できますこと心より感謝申し上げます。