更新日:2020-09-09 仏教三法印四法印縁起観

仏教を学ぶにあたり基本となる教え

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
仏教を学ぶにあたり基本となる教え

仏教を学ぶにあたり基本となる教え

書いてみることだけは決めています

ハワイ島マウナケア(2013年撮影)

おかげさまで、平日のコラム投稿も継続してやってみようと決意して、軽い気持ちで、その時々に思っていたことを文章に仕上げながら、改めて自分が過去やってきたことの整理整頓をさせて頂いている感じです。

正直、書くことを決めて、粛々と文章にする日もありますが、全く何も考えずに、キーボードの前に座って、その時に書いてみようと思ったことで、コラムが出来上がる日もあったりします。

いずれにせよ、毎日書いてみようと思い立ってやり始めたのですが、自分自身が思った以上に、文を書くことを楽しんで、やりがいを感じて、書き進めていられることがとても嬉しく思っております。
継続的に、体系的に、連動性を持って、文をまとめてみたいと、常々感じていた保留事項をここ京都で、実現化をし始めていることも、本当にありがたい思いが溢れてしまいます。

さてさて、今日は仏教を知る上でとても基本になっている考え方、教えをご紹介させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。

最もベースになっている真理「諸行無常」「諸法無我」

仏教の根幹にあたる二大真理

諸行無常:すべては変化する
諸法無我:すべてのものごとは、他と関わりなくして存在することができない。すべては関係し合って存在する

諸行無常(ショギョウムジョウ)・諸法無我(ショホウムガ)という二大真理を知り、いつでも、誰でも、どこにでも当てはまる真理・法則=教えを活かして、自分自身を生きなさいと学んできました。

では、何を心がけて、どう生きればいいのでしょうか?
私たちは常に、変化し、関係し合って存在しています。
その関係し合った影響を通して、変化を体験するので、私たちが心がけることは、いい変化、いい関係を構築して参りましょう。
というのが最も基本となる考え方と言えましょう。

それが順応や適応、活用することを可能にしてゆければ、「涅槃寂静」の境地に至り、
それができなければ、逆に「一切皆苦」という境地に至るのです。

もう少し詳しく申し上げますと、初歩の初歩の段階でお伝えする内容としては、自己中心・固定執着する心であれば、いい関係を経ていい変化を起こすことは不可能でしょう。
逆に、日々感謝と成長や向上心を持って行動するようにしてゆけば、自ずと心は穏やかさ、生きがい、喜び、幸せを感じられるようになるでしょうということです。

ただ、仏教を通して学ぶべき大事なエッセンスをお伝えするのであれば、もう少し専門的な用語を加えながら、ご説明が必要になるでしょう。

涅槃寂静・一切皆苦を含めて、「三法印・四法印」

「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に異なることを示す。

諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。

無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。『大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、真の「常楽我浄」があるとする。

無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。
(中略)
仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な利他活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして法印といわれるのである。

「一切皆苦」(いっさいかいく)は、仏教における四法印の一つである。正しくは「一切行苦」と漢訳する。
初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれている。これを「一切皆苦」という。

阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される[要出典]。「圧迫して(○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。

涅槃寂静・一切皆苦を含めて、「三法印・四法印」

*注:上の引用文章の中で一切皆苦の部分はこちらから

涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。

仏教の目的は、煩悩を滅し、仏や如来と等しく備わっている「智慧」をマスターし、その智(差別相)慧(平等相)を通して自分やこの世の真実の姿を見極めて、自由自在に存在することです。

ですので、日常生活において教えを活用して、ハッピーになろうっていうくらいに実践する事も可能ですが、実際の仏教とは完全な智慧ある観点と慈悲の境地を持って自由自在に存在する域まで到達するということでいえば、並大抵の目標や願いでは、やはり涅槃に至るという究極を達成するのは難しいかもしれません。

二大真理の具体的な展開としての縁起の教え

変化と関係の具体的な展開としての教え

仏教の教えを知らなくても、「因縁果報」・「因果応報」という言葉くらいは聞いたり、見たり、読んだりしたことがあるでしょう。

それが「縁起の教え」「縁起観」という仏教の根幹にあたる真理になっています。
どうやって、関係しながら、変化をしてゆくのか?それを端的に説明している教えがこの「縁起」の教えであります。

では、少し補足説明をしてみましょう。

縁起の教え(縁によって起こる)とは=因(原因)+縁(条件)=果(結果)→報(影響)

ということです。
この現象世界は、すべてこの縁起の教えの通り、成り立っております。

すべては、孤立して存在し得ないので、何らかの関係性を持って、(縁)、インスパイアが起こり、何らかの変化した結果(果)が生じて、その結果に応じた影響が残ります。(報)
一つ一つこの縁起の教えを照らし合わせて、証明するとか、説明することは致しませんが、シンプルに上記のように書いてある通りです。

仏教は法則や真理に対して謙る教えとも言える…

この縁起の教えが仏教の特徴を言い表しているとも言えるのですが、
仏教は、この原因があって、条件に触れて、結果が生じ、いろんな派生・影響が起こるという考え方の基盤がありますので、
どうしても、すべての現実を創造している「私」という存在がすべての元凶であるというくらい
徹底的に状況や人などのせいにする姿勢には厳しく指摘をするケースが多いです。

だって、いかに望まない現実であろうと、嫌な人とあって思い通りにならない現実しかなかったとも言えようとも、
突き詰めて突き詰めてしまうと、「その原因の源は私にある」という結論に至ってしまうから…。

しかし、その原因の探究、根本原因を究明を可能にするには、とても人間に対する理解、法に対する理解をしてゆかなければ、見極めることができません。
ですけれども、苦悩の体験をもししているのであれば、私がすべて作っているという姿勢がなければ、その先がないと言い切れるほど、縁起の法則から逃れられることができません。

無智なる人間には盲目的で、刹那な的で、真理に対して明るくないまま、真理を無視し尽くして存在していますから、どうしても、人や状況のせいにしてしまいがちなのです。

その姿勢や生き方を顧み、改め、自分を変えてゆくことができれば、今の私から経験する世界が変わってしまうのです。
そこは、あまり難しくなく、簡単に、楽に、私を変えることも可能にします。

真理を理解し、真理を活用し、私が真理の如くに生きさえできれば、自ずと全く違う世界を観ることになるのですから。

今日も最後まで、ご一読頂きまして、ありがとうございました。
また、近いうちに、このコラムにてお愛致しましょう。