更新日:2020-09-07 仏教八正道自灯明法灯明自己理解智慧

私を知るための視点としての仏教

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
私を知るための視点としての仏教

私を知るための視点としての仏教

日曜日という休日を過ごしてみた

*トップページ:写真ーハワイ島マウナケア(2016年撮影)

過去の私は、日曜日と言えば、サービス業の典型のように休みではなく、出勤日が当然の日々を過ごしてきました。

普通に仕事をしている人たちが集える日としてあれやこれやとイベント等を企画して、なんやかんやと仕事をしているのが
日曜日という認識が私の過去の経験を通して見ている世界でありました。

なんだかとっても身体を休めてみたいという思いが強くなって、思いっきり、ごろごろとしたお休み日として日曜日を使ってみたのです。
正直、効率性や生産性というものを完全に無視して、その時々にしたいことをやってみて、なんだか身体と心のリセットができましたことは
とてもいい経験となりました。巷では、人たちがお休みを満喫しながら、家族やカップルの皆さんが京都の街を楽しんでいる光景も
なんだかとても新鮮な思いで、その場にいる自分の感覚がとても不思議な感じで、なんとも表現しにくいのですが、「ほっと」するということと、
このコラムすら土日はお休みにしてみよう、してみたいと思って、
完璧に文章を書かないという時間もまた、やりたいことをやる。やりたくないことはしないと自分に正直にやってみてスッキリしています。

そうしたお休み後の今日はコラムを再開させてみようと思いつつ、文章を認めて参りましょう。

今回は、特に、私が宗教家であった頃に、自分自身の振り返りをする際に、活用していましたいくつかの教えのポイントをご紹介させてもらいたいと思っています。

宗教家になる前の私は…

宗教家に至るまでの道のり

私は仏教の教えの特徴として、非常に緻密に、綿密に、繊細に、論理的に構成されているものだから
信頼と信用を持って、信じてみよう、実践してみよう、活用してみようと思えた数少ない真理と捉えていました。

真理とは、いつでも、どこで、誰にでも当てはまるものという考え方を学んでおりましたので、
時代や、状況や、環境に応じて、一過性で、通用しない、不安定なものを物差しに、基準にしながら私の人生を送ってゆくのは
非常に心許ないですから、確かさ、安全さ、信頼、普遍的なものをどうしても求めてしまうのが、若かりし頃の私のこだわり、信条でありました。

おかげさまで、私が大学時代に特別に法華経をはじめとした仏教の教えの基本となる部分を
教団の青年育成の部署の方々から直接学べる機会を頂戴していたので、他の一般の信者さんに比べて、学ぶ機会が多く、またプロの方がら学ベる希有なチャンスを本当に私は興味深く、関心を持って、参加させて頂いておりました。
特に、大学3年の夏、法華経の全体と要点になる部分の理解をするために数少ない全国から集まった大学生のために開催された研修の録音は、ずっとその後、私の自宅で寝る前には、何度も何度も聞きおなしていた経緯があります。

そのため、大学生の頃には、肝腎要の部分の教義は理解しきれなかったというところは否めませんが、
全体の構成、その教えの流れ、その所々に説かれている教えのポイントを把握して、人の前でもそれらの話を研修講師として、教えを人に伝える経験もしていたのです。

いろんな意味で、私が経験してきた内容と質は、客観的に他の方たちが努力するタイミングと内容を見てみると、どうも20歳の頃から始められていて、数年間前倒しでいろいろな経験をしていたんだと、後々になればなるほど実感しているところがありました。
大学生の時代には、実際にイベントの企画、開催、運営だけではなく、年間のスケジュールを俯瞰した上で、後継者となりうる後輩たちの育成を考えて、専従者がやるべきところまで、自分たちでマネージメントしていた(それを許されていた環境)特殊な環境下におりました。

そうした組織活動、人材育成のポイントとなる部分を直接教えてもらいながら、大学生の活動を自主独立してやっているリーダーをしておりましたので、実際に大学2年生の夏頃には、「教団職員としてやってみたらいい。」といろんな方々からスカウトの声がかかるようになっておりました。

正直、自分自身が普通のサラリーマンや企業戦士となるような世界に魅力を感じるよりも、もともと親子三代教育者としての家系にいた私としては、知識としての学問を学んで、人に伝えるよりは、「仏教」という私が関心を持って、自分のものに極めてみたいと思えていることをマスターし、且つ、人に伝えることがそのまま仕事になるのであれば、それも面白いのかもしれないと思い始めておりました。

それ以上に、私の中にある切実さとしては、家族のいろんな問題が顕在化されることによって、より自分自身が教団職員、専従者、出家をすれば、私の家族に対してもなんらかの好転的な変化が起こるのではないか?または、私が智慧を身につけてゆけば、より問題を解決する方向へ家族を導いてゆけるのであれば、自分の人生をそこにかけてみようと思い始めていたのです。その時の私は正直藁をも掴みたい思いで、自分の力の限界を突破したいという願いが強くあったのでした。

もし、私の人間性や私の人生の歩みに興味がある方は、ぜひ私の拙書「NewReality〜新しい現実創造・ここ日本から〜」をご参照くださいませ。

仏教を学んだ中で、基本的に大事にしていたいくつかの教え…

私なりにやってみてみた仏教のエッセンスを

自灯明・法灯明

アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように
と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、
ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?
阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。

自灯明・法灯明

仏教の教えとは何でしょうか?という質問に対して、この自灯明・法灯明という教えが核心的で、且つ、最重要な教えであることは否定しません。
教えの要点はもちろん、この教えで充分表現することができております。

しかし、そうは言っても、釈尊が説かれた教えは八万四千の教えとも言われるほどに、具体的に、その時々の対合衆(聞いている人・弟子)に応じて教えが説かれております。そういう意味ではその時、その場、その人に応じて、必要な教えは千差万別とも言えますので、今回は、自分自身が私の振り返りをする際にと限定させてもらった上で、活用してきた教えをご紹介させて頂きたいと思います。

私が私を振り返って見直してゆくための視点として活用していた教えは、「十界互具」「八正道」(前半の四つの部分)「法華経に説かれたポイント」があります。
では、それぞれ順次教えの内容をお伝えさせて頂きます。

「八正道」の内容と詳細について

最初の「十界互具」については、過去投稿したコラムに詳細が書かれておりますので、こちらをご参照ください。

そして、次に八正道です。

「八正道」の教え

八正道(はっしょうどう、巴・梵は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟(正思)、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支ともいう。八正道は釈迦が最初の説法(初転法輪)において説いたとされる。四諦のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる。

「八正道」の教え

一つ一つの仏教用語を説明するのはそれぞれネットサーフィンで確認できうるところが多々ありますので、その点はそうしたサイトにすべてお任せしたいと思います。

八正道の教えの中で、最も重要で、且つ、他の七つの項目とは決定的に違っているものが、「正見」であります。ここだけは外側からのインプットにあたり、それ以降は自分が外に向かってアウトプットする段階、ステップが説かれています。

正直、もし「正見」ことさえできれば、他の部分は以下省略としても問題はないのです。
しかし、そうは言っても、人間は自己中心なものの見方、枝葉末節的な観点、真実を見抜くことなく幻想の世界でしか見えていないという事実でありますので、人間が見失った智慧、眠りこけて忘れてしまった仏と同じ存在、実在、性質、能力、観点、境地を取り戻してゆく必要が大いにあるのです…。

簡単に表にしてまとめたものがあるのですが、
「見」「思」「語」「行」
あと四つの教えで習慣、人格形成、生き方へ
インプットするのが「見」の部分になります。
そして、それ以降のアウトプットが残り七つの教えになるのですが

「思」という部分は、実はその人だけの中で秘められている重要な領域で、人にも自分にも見えない領域です。
そして、それ以降は、実際に肉体の自分を駆使しで、表現し、存在し、自分という人間が個体性として現れてゆくプロセスが描かれています。

私は、これからの教えの中で、自分を振り返る大事なポイントとしては「(見)ものの見方」「(思)考え方」にあると捉えています。
簡単に、自分のあり方、ものの見方、考え方というものが、あらゆるものを創造する根幹にあたる部分でありますので、どのように見ていたのか?どのように考えていたのか?
ものごとが順調にいかない時であればあるほどに、そこの部分を自分で観照することを意図してきました。

現在は、ものすごくシンプル化されてしまい「愛」か「恐れ」か、真実かウソか、自分の心へ問うてみれば、自然と答えがわかって行くようにまでなってきています。

法華経のエッセンスを紐解きながら

聞解・思惟・修習の繰り返し

妙法蓮華経法師品第十より引用

もし聞解し、思惟し、修習することを得ば、かならず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。ゆえはいかん、一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、みなこの経に属せり。この経は方便の門を開いて真実の相を示す。この法華経の蔵は深固幽遠にして人のよく到るなし。いま仏、菩薩を教化し成就してために開示す。

妙法蓮華経法師品第十より引用

私は法華経という教えがとても好きです。宗教家を辞める時まで、私の中では、ここまで緻密に悟りや救いのエッセンスが散りばめられているものはないと思っていたのです。
しかし、その教え以外にも、真理を示し、悟りへの道のりを指し示している指針があるのを見つけたのは、非常に私はラッキーだったと今はとてもとても実感しております。

さてさて、上記の法華経の一節全ての意味や内容を理解する必要は現状全くありません。興味を持たれた方はぜひより理解を深めてゆけるようにご尽力いただければ幸です。
今回は、最も重要なポイントとしてご紹介させて頂きたい部分は以下のところに当たります。

聞解(もんげ)・思惟(しゆい)・修習(しゅうしゅう)

というプロセスです。
とっても端的に申し上げますと、「知る」「分かる」「できる」というステップを踏んで参りましょうということです。
悟りのプロセスは、一気に全ては一つという観点と境地に至るということもあるのですが、
やはり、エゴをまとって眠り続けて生きてきたもう一人の自分である自我を完全に降ろして存在することは並大抵のことではありません。

薄皮を剥ぐように、玉ねぎの皮を一つ一つ剥いてゆくように、着々と、自分自身の心、私自身のあり方を紐解きながら、その三つのプロセスをその段階その段階において極めてゆくという螺旋階段を登ってゆくようなものであると、私は理解しております。

自らの神秘の門を開いてゆくあゆみは、本当に、ヤカンで水を沸騰させてゆくプロセスに似ているものがあります。
一見、100度に至るまでの水は決して表面的に、顕在化して、変化を見届けることが難しいのです。

しかし、0度から99度に至るまで、悟りへの情熱の火を灯してゆくのは、誰でもなく、自分自身しかいません。
他の誰かが何かをしてくれるわけでございません。

もちろん、サポートやフィードバックをしてくれる僧伽(私訳:同じ志を持つ共同体の意味)の存在はとてもとても重要な存在としていてくれるのはもちろんではありますが、やはり、そうは言っても、最終的には自分自身と自分自神との二人三脚で成し遂げてゆくべき個人的な偉業(共同作業)であると私は理解しています。

十界互具、八正道の教えを私に活用しながら、知る・分かる・できるというステップを踏んで、より自分自身への理解を深めてゆくことができましたら、ありがたい限りです。

それでは、最後までお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。
また、近いうちにこのコラムにてお愛できますこと心より楽しみにしております。