更新日:2020-08-31 ブログ仏教自灯明法灯明三宝帰依

究極に至ったその先に

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。

究極に至ったその先に

京都での生活が1ヶ月経ちました。

みなさま、こんにちは。
NewRealityInc.代表境大雅です。
おかげさまで京都での生活が一カ月間を過ぎてあっという間のひと時でした。

今まで、約四半世紀ほど結婚を含めて、いろんな人たちとの共同生活を送っていた私がこのタイミングで一人暮らしができるとてもありがたいそして、貴重な時間を経験させて頂いております。

基本的に私は常に一人でいます。自分が自分と向き合える時間があるのは
本当にしたくても、なかなかできなかったとてもとても稀有な経験をさせて頂いております。

その中で、リアルでもオンラインでも多少の人との対話や接触がありますので、その時々に話したことがきっかけになって、書いてみたいこと。思いついたことを徒然なるままに表現する機会にさせていただければ幸いです。

三宝帰依

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仏教徒が仏教徒たりうる条件として、「帰依三宝」という教えがあります。

お釈迦さま(以降、釈尊と明記)が仏教の教えを信じ、弟子となろうとする人たちに向けて、出した条件というものがこの「帰依三宝」という教えであります。
最初の段階では、釈尊が仏教徒になりたいと言う弟子を直接許可していたようですが、だんだんと弟子たちの数や入信するケースが必ず釈尊に許可を得なければできないという状況を変えるために、出てきた初期釈尊教団にて生まれた戒め・ルールとなって行ったのです。
「帰依三宝」という教えを信じ、従い、自らの悟りを極めようとするのであれば、仏教徒になれる入会条件のような規範と言っても間違いではありません。

釈尊教団の弟子たちは、釈尊のもとで教えを学びながら、実際に出家生活・共同生活を送っている時期があるもの事実ではありますが、弟子たちが別々に分かれて、多くの地域、民族、国へと布教に出かけて、その先々で弟子たちを増やしてゆくという布教形態が会ったこともまた、歴史的事実に基づいて証明されております。

さて、それでは、帰依三宝とは一体どんな教えでしょうか?その内容について、触れてみたいと思います。

「三宝(さんぼう、さんぽう、梵語: ratna-traya, trīṇi ratnāni)とは、仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物を指し、仏陀と法と僧(僧伽=そうぎゃ、さんが)のこと。この三宝に帰依し、その上で授戒することで正式に仏教徒とされる。」Wikipedia より引用

自ら仏に帰依し奉る・自ら法に帰依し奉る・自ら僧に帰依し奉る

この経典の一文は、仏教を信仰している教団であれば、必ず所依の経典となる各お経の中に出てくる仏教では最も重要で、有名な一句とも言えるでしょう。

私なりの意訳にはなってしまいますが、
「私は仏陀・目覚めた存在としての釈尊を吾が命をかけて信じ仰ぎます。
私は釈尊の教え・法を命をかけて信じ仰ぎます。
私は釈尊の教えに信奉する人たちと切磋琢磨しながら、教えをマスターし悟りを極めて参ります。」と私は理解し、解釈しております。

自灯明・法灯明

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さて、次は「自灯明・法灯明」の教えについて触れてみたいと思います。
『アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように』と訓戒し、
また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、
『ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について、感覚について、心について、諸法について(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。
アーナンダよ、このようにして、比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである』
として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。
Wikipedia より引用

「帰依三宝」・「自灯明・法灯明」という教えの違いを理解し、活用するポイント

「帰依三宝」・「自灯明・法灯明」という教えの違いを理解し、活用するポイント イメージ

求道者として生きる上で、私たちが最も大事にしなければならない教えとして「帰依三宝」が仏教徒の規範として存在しています。

そして、釈尊の対する敬意・信奉、その教えに対する信心を持って、自らの悟りを極めて、究極へと至る道のりを一人一人が歩んでゆく。
そのためのフィードバックをするための環境として、同じ志を持つサンガ(僧伽)という共同体がとても大事なのだというのが、仏教徒において教えをマスターしてゆく重要な要素として存在してきましたし、現在進行形で存在しております。

ところが釈尊が入滅(お亡くなりになる)前に説かれた教えに「自灯明・法灯明」というものが存在しております。

自らを拠り所とせよ。
教え・法・真理を拠り所とせよ。

ここには、今まで大事にされている考え方、「僧伽」という共同体については一切触れることがなかったのです。
ずっと私はこの点についての理解を保留にし、そして、その回答が自らの中から出て来るまではとりあえず疑問をもちづつけて置こうとして長い長い求道生活の課題にしていたのであります。
おかげさまで、その明確な答えと、自分自身の中から湧いて来る思いがはっきりするところまで至ったので、今回表現をして参ります。

そもそも「自灯明・法灯明」という教えは、思いっきり自己完結をしています。自分で考え、自らで法を照らし合わせ、活用し、自らが自らの観照者として、自らを理解し、マスターの道を生きなさいと言われているようなものです。

仏陀としての観点・境地に至っていない「菩薩(仏の悟りを求道し修行する者)」出会っても、究極的には仏陀としての観点を完璧に理解しきれていません。
見えている観点と境地が、究極に至っていない段階でのレベルでは無理なのです。釈尊と同じような視点や境地で言葉を発信、行動するということが…。

しかし、「釈尊が残して下さった『智慧』の教え」「イエスさまが生きて示して下さった無条件の『愛』」そして現在私が生きて存在している覚者・マスターとして師事しておりますマスターゲート師の教え『自覚』」という三点セットが私の心の中に開花し、目覚めていったことで、私は私自神との二人三脚の人生がここ京都で始まっています。

今までは僧伽(サンガ)という環境は必要不可欠だという考えがあった頃の自分とは違って、本当にしなければならないのは私が私自神との統合を果たし、私自神とともにあり、私自神で存在するという究極に至っている手応えと確かさを、私の心から溢れ出てきて仕方がないのです。

そうすれば、自ずと「自灯明・法灯明」という究極に至るための教えの真意が見えている私が、そのコンパス・羅針盤を持って、自分を理解し、現実創造の真意を汲み取ってさえ行ければ、OKっていうものすごく楽で、軽やかなところで、私を存在させている最中です。

以前、師匠から釈尊とイエスさまのこの惑星におけるお役目を学んだことがあります。
人間として究極に到達すべき道を提示したお方、そしてもうお一方は究極に到達した人間が行くべき道を提示した方だという真実を…。

であるならば、究極に至るための仏教を極めて、そして、その後の聖書に書かれてあるイエスさまの御心に触れてこそ、その先が見えてくる「何」かはすでに私の手の中に、私の心の中にあったのです。

それが「私が一体誰なのか?」という私に対する究極の理解をし、その自分で生きるのです。
その確信を持って目覚めて生きることを教えとして残して下さったお二人の存在・そしてその教えを残そうと尽力下さった多くの先達・存在たちへ改めて感謝申し上げます。

私が私を存在させ、私が私を本当に活かし、私が私を本当に愛で、私が私を理解しマスターしている心持ちで、やりたいことをやる必要がある時にやってゆくのみです。

ますますこの京都で存在している意義と、価値を実感しつつ、新しいスタートを切ってしまっている今に感謝が溢れてなりません。