更新日:2020-09-19 自己紹介雑談境大雅スタバ起業家宗教家精神世界スピリチュアル仏教徒

組織人としての役割と葛藤(29-33才)

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
組織人としての役割と葛藤(29-33才)

組織人としての役割と葛藤(29-33才)

個人としての意見と組織に求められる役割

セドナ(2011年撮影)

昨日の過去の経緯を思い出しながら、振り返ってゆくプロセスを今させて頂ける自由さと贅沢さを改めて実感しております。
私の経験してきたことを開示する機会もあまり作ってきていませんでした。
自分の経歴を披歴することも多少はありましたが、ここまで詳細に文章にしながら、自分を理解しなおしてゆく時間は、本当に稀有で、めったにできないことだと、私自身が自分に対して思っている正直な感想です。

今日のコラムは、東京に帰ってきた5年間、大きな巨大組織の一部としての役を担ってゆく中で思った葛藤を中心に文章を書き進めて参りたいと思います。
それではよろしくお願い致します。

組織人として生きる葛藤を経て病む

心に矛盾を抱えながら生きるストレスで

東京に帰ってきてからの5年間は、教団本部施設内にある青少年育成の部門に所属することになりました。

3年目以降はいつも人事異動でどこに配属されるかわからないという心を持ちながら、その環境下で求められる役割を全うすることになりました。
正直、私が抱いた感想は、誰でもできそうなことを組織のねじの一つとしてやるしかないと思って、心をどこかに封印して、組織人としての役割を担うしていた時期でした。

本部組織の役割は、基本的にビジョンや方針を打ち出す以外は、各20箇所にいる青年層の専従者に対するサポートや、本部が預かれる一番コアな各階層のトップリーダーの人たちを集めて、予算と環境を用意して、イベントや継続性の薄い教育を実施する所でありました。

簡単に言いますと、その時のイベントに出会うだけで、再会の機会がほとんどない人たちと繰り返し会い続けてゆくということです。
仙台で地道に人と継続して関わっていた私が、ここでは打ち上げ花火の裏方スタッフをしているようで、とても物足りなさと、やっていることの無意味さをストレスに感じる日々が続いていたのでした。
特に、いろんな業務が教団内の上下関係や、関連事業体の意向で、玉虫色になりながら、方向性も、努力する事柄も一貫性も連動性のかけらも感じられないまま、事柄だけはなんとなくやっている空虚さは、本当に私には耐えがたい経験となりました、

その5年間で繰り返し多く経験したことはイベント屋と言っても過言ではありません。11月の時期に一度1000人クラスの青年幹部(在家・ボランティア)が集まる指導会をはじめとして、一番多かった年は、500~1300人規模の一泊二日のイベントを年間7・8回程度開催、150名ほどの二泊三日の教育を金土日で年間12回程度開催、夏休み期間は100名規模の小学生キャンプのヘルプに入り、1300人規模の中学生向けイベント受け入れをし、その日の夜に前泊をして、翌日から高校生を一週間80名ほどフィリピンに連れてゆくというハードスケジュールをこなしたこともあました。こ
本部には本部としてのそれ相応の予算をかけて、行事計画を実施できましたので、小学生から40歳になるまでの青年対象に行う行事を、本部でしかできないような試験実施の教育や、本部という環境を活用したイベントや教育を行うというサイクルを4-11月にかけてひっきりなしに行っている状況でした。

教団本部には年間の行事予定が組まれる前に、ちゃんと申請をしてゆけば、5000人規模のホール、7000人収容できる大聖堂、宿泊も1000人が可能な施設を抱えていましたので、その施設の中のいろんな場所を駆使しながら、イベントをすることは他部署の協力は不可欠ではありますが、実施することが可能な巨大な施設を抱えておりました。
(現在は、耐震性の問題から使用不可能な施設ができたり、取り壊されたものもあります。)

5年間の本部での業務の中で、最後に指示された業務を抱えたことで、私は完全に心に忌憚を生じることになりました。
詳しい内容は割愛致しますが、上司が必要としているものは、理想としての考えにすぎず、私の考えでは現実不可能なマニュアル化をしろと言われているようで、完全に思考停止の状況で、ほかの業務は何とかこなしながら、最後は心に負荷がかかりすぎて、私は精神的に病んでしまいました。結局、その業務に関しては、なにもできないまま次の赴任地へ移動することになりました。

その時、直属の上司が、あなたは人との関わりをもてる現地に行った方がいいだろうから、素晴らしい方が引退をせずにそのブロックの長として赴任されるので、そこに送り出すからといいながら、私は、岩手県盛岡へ3年8か月間の赴任することになったのです。

東京5年間という月日を通して観えてきたこと

本部にいるというメリット、組織のあり方を知る機会に

先ほどのコラムでは、私はあまり前向きな、そして、建設的な意見を述べる機会が非常に少ない文章であったかと思いますが、すべてが否定的な経験だけであったかと言えばそうでもありません。

私の20代でのキャリアはほとんど現場の一地域にいただけでしたので、本部組織のあり方、そして、そこにいる人たちの中で、どういう人たちが核になりながら、施策の実施、そして、そこに取り巻いているいろんな諸事情を知る機会にもなりました。

結局のところ、ほんの短い期間内で、例えるなら大臣クラスの理事さん方が集って、いろんな諸問題や諸課題を処理できるほど、話し合いができるわけでもなければ、過去の大先達への配慮を欠かすことができない関係性がある中では、問題や課題を顕在化させて、それに対処することのいろんな難しさを、間接的に知ることになりました。

どのような人たちが、どのような経緯を経て、どのように事が進められてゆくのかを、巨大な組織の中で、うごめいてゆく展開を、直接、間接的に観ることは大いに意味のある年月となりました。

結局、よくよく見えてきたのは、「誰が決めたかも明確でなく、誰たちの決定でこれらが進められているのかも不明寮で、誰が責任を取るのかも、曖昧模糊な所で重要な案件の表面的な問題だけが話されているということだけはよくよく理解できました。」

人に対して、個々の信者さんには「苦を諦らかにせよ。」と四諦の法門の一番重要な所を伝えているような教団幹部の皆さんも、教団という巨大な組織となってしまうと、そこを明確にすることをなおざりにしたまま、小手先の対処でやった気になるのは仕方のないことなのかもしれないと、私も私なりに覚悟をしなければならないことを自覚していました。

もしかして、開祖が成し得た過去の栄光だけを握りしめたまま、タイタニック号は完全に座礁し、時間の問題こそあれ、行くべき到着地にたどり着けずに、沈む可能性だけが私の中に明々白々になっていったのです。
(もちろんそれを避けるために何ができるかを、いつも、常に、私は考えていたので、いつも難しい・真剣な顔をしていると、後々研修講師を務めいた際に出会っていた信者さんから言われることがありました。本当にその通りでした。)

いつも若かりし頃から、教団の重要な案件に関して会話をすると、先輩になればなるほどに、「えらくなってから、お前たちが変えればいい。私もそうやってキャリアアップしてきた。」という人が大多数で、基本的に肝心なことであれば、あるほどに、アンタッチャブルな話題になり、教団の方向性、財政状況を鑑みながら、いかによりよくしてゆけるかを真剣に考えている人と話し合える機会は本当にめったにいなかったのです。

そして、そうした全体の課題は、顕著にでてきたのが人材不足でした。徐々に徐々に教団の管理職をあてがう人材が補充できなくなり始めて、結局引退するはずの年齢に達した方々に再々度契約をして、管理職のポストを埋めることしかできない状況下です。
もちろん、団塊の世代が引退すると人材不足になるという日本の雇用問題はどこでも発生うる課題でありましたが、そこを解決する道はなかったんだと思えてなりません。

特に、私の中で、決定的な印象に残った会話があったのですが、教団の全体を把握している部署の担当者が、人件費を削減するために、職員の給与体系を根本的に変える説明会を催した後の後輩のセリフでした。

「これやばいです。前務めていた会社がつぶれる前に、給与削減の説明をした内容と全く同じです。これ本当に危ないってことですよね。」と真顔で私に話してきた姿が、この教団はタイタニック号と化してしまったんだと、本当に理解するしかありませんでした。
(この出来事は、実際に退職する3・4年前の出来事でした。)

いろんな事情を理解した上で、上の世代を変えることは不可能だから、当時33歳の私にできることは、与えられた役目、役割の中で、私との信頼関係を紡いで行ける若人を探して、そこから渡せるものを渡してゆくしかないと、全体のほんの一部でも、私がなせることに最善を尽くそうと思うしかありませんでした。

そんな思いを抱えながら、いよいよ私は東京から岩手県盛岡市へ赴任することになったのです。