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大悲代受苦の心を我が指針となす(22~25歳)

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
大悲代受苦の心を我が指針となす(22~25歳)

大悲代受苦の心を我が指針となす(22~25歳)

徐々に個別相談を受けるようになる

シンガポール(2016年撮影)

みなさん、こんにちは。人生において光の灯台となる存在・考え方・ものの見方と出会うことの大切さを知っておられますか?
私は、少なくとも20歳のころから、そのような精神的な指針となるものを探し求め、見つけ出し、マスターしようと試行錯誤する人生を送ってきました。

私にとっての正解の答えは、全くしばらく見いだせることができませんでしたが、「葛藤」という人生からのプレゼントを受け取ったことは、その後私にとってはかけがえのない心の宝を手にすることになったのです。

深い苦しみや悩みを抱えていた私の人生が、違った見方、違った観点から、自分を霊性に、冷静に観えるようになるまで、人との出会いや人の人生と触れ合うことができましたのは、本当に在籍させて頂いた教団に対して感謝の思いしかありません。

今日は、タピオカ屋さんで、中国から仕入れられているタピオカミルクティーを飲みながら筆を進めております。
それでは、よろしくお願い致します。

私にとっての慈悲心とは…

組織活動のリーダーからの転換

私の学生時代の経験値は、ある意味いい環境下に身を置くことで、ボランティアで自発的に学びをして、経験を深めてゆく時期となりました。
ある程度自分がやりくりできるような手ごたえを感じられてからは、自分自身が中心になってやるというより、後輩達に任せてほとんど最終的な場面以外は会議にも出ずに、責任者になる後輩リーダーと個別に話をする機会を多く持ちながら、後輩へ引き継ぎができるように尽力する大学3年生の後半と4年生でした。

そして、少し話が前後致しますが、大学3年生になる直前に、私は私の今後の将来の行くべき道を定めることをしました。

(そして、更に、少し話がそれてしまうのですが、
ちょうどそのタイミングあたりから、地元の教会において、母親の在家信者としてのポジションが徐々にあがってゆくことになってゆきました。
最終的には在家信者としてNO2のポジションを担うことになり、その後も筆が師範代の免許を持つほど達筆な人でしたので、何かあると、その能力を買われていそいそと教会の事務所へと通っていく人生が、この後25年ほど続いてゆくことになってゆきました。)

その頃から、姉を通してめったにできない波乱万丈な経験をすることになりました。過去のコラムにも書いてありますので、詳細は割愛致しますが、
私の人生において一番深い闇を経験し、自己の無力感と、無価値観をまざまざと味わう孤独地獄に身を置く約10年近いタイムラインの始まりとなったのです。

この頃、私の実家では、私にだけは繰り返し「死にたい」と言うほど、心が荒んでゆく姉への対応に、親と私は翻弄させられることばかりでした。
その当時(大学3・4年生)の私は、金を稼ぐ術もなく、指をくわえてみているだけでした。
問題の根本原因は見極められることができずに、表面的な問題のみに対処するだけで終始してゆく、それが境家のありのままの姿でありました。

多額の借金は債務整理をして父親が肩代わりをしました。次に、元義理の兄の暴力と姉のコミニュケーション不足からくる夫婦喧嘩で、実家にちょくちょく帰ってくるようになり、最終的には暴力がひどすぎるので、先行きは分かれるしかない状況にならざるをえませんでした。
親から、暴力再三続くようであれば、分かれることを承知してもらって離婚届を姉夫婦に書いてもらい、その書面を親が預かり、ケンカの繰り返しは止まることもなく、結局4歳の甥っ子を抱えて実家に帰ってくることになったのです。
(私が東京へ行ってからしばらく経ってからのことです。)

すべての経験は糧となり、感謝となり…

我が歩むべき道を自覚し、覚悟する、

この後、私が大学を卒業して、上京してからは特に、境家の問題に対して対処するしかないまま、ずっとずるずると解決されることはありませんでした。私が記憶している限り、だいたい4~6年ごとになにか問題を引き寄せては、対応するという連続でありました。

私が宗教家として、布教者としての心が定まったころに、私の母が大変お世話になっている幹部の方から、初めて私に対して言ってくださった言葉があります。
「あなたのお姉さんは、あなたを菩薩(仏の悟りを求めて修行精進する存在)にするために、そして、父親に信仰の道へと導くために使わされた役目があって、その姿を見せてくれる。」
「布教者になろうとするのでれば、自分が苦労をし、その苦労を通して得たものがきっと人の苦悩に対した際に、役に立てるような自分になっているはずだから。」と本気で向き合い、激励の言葉を残してくれたことが今でも鮮明に覚えています。これらの幹部さんの思いを込めた言葉が、私の決意と覚悟を決める大きな出会いとなりました。

しかし、だからと言って20歳そこそこの私の心が晴れるわけではありませんでした。どうしてこうした問題が生じるのか、その中で私は何を学び、何を糧として生きてゆけたかという整理は、26歳になってゆくまでしばらく葛藤するしかない私でありました。

とにかく、私にとっては実家の状況がいつも頭の中にあり、正直、いつもどこか後ろ髪をひかれ続けているような違和感と心の重さを引きずっていた20代の私でした。

その重さがあったおかげで、私は必死に努力をしていました。中でも幹部候補生として学べた約3年間の内、布教現場に行く際に、私の母親の世代の人たちに混ざって、人の悩みや苦しみを間近で見聞きするようになり、その経験をなにか私も糧にしたいと思って、親世代の人たちと向き合える時間は真剣にならざるを得ませんでした。
それと共に、この真剣になっている自分がいるのは、家庭の問題があればこそだと発想の転換が生まれ始めて、両親や姉に対する感謝の念が少しづつ思えるようになってゆきました。

人は、自分の問題だけに埋没している間は、自分の固定した観点から抜けられず、自己の妄想の世界で、自らを自縄自縛してゆく傾向にならざるをえません。
その考えの堂々巡りの中で、自らを卑下し、または、その状況や他者に刃を向けて、向き合うべき私の「考え・感情」を見ないままで、楽に流れようとすることが多々あります。

もちろん、私の抱えた問題は、実際に私が直接的に作り出したものではなかったにもかかわらず、家族の思いに引きずられて、20歳のころからただただ自らで重さと苦しみを自らの背に乗せていていただけだったと観えるようになるまで、本当に10年近い月日を要することになりました。

その苦悩があればこそ、私は私の抱えている悩みを解決しようと、歩んだ月日がありました。その悲しみを抱え続けたおかげで、観音菩薩の願いである「大悲代受苦・抜苦与楽」という慈悲の精神を自らの願いとして、生きる指針にすることになりました。

私の関わるべき人たちとの出会いが生まれ始めた26歳以降には、本当にその重さを超えてゆけた精神的なたくましさ、強さが役に立てる礎になっていったのです。
信者さんたちからの期待やプレッシャーにめげることなく、それ相応の実力を兼ね備えて、本当に宗教家として必要な資質を、家族の姿や存在を通して、養ってもらえたんだと心から感謝するようになったのも、20代の後半になってからのことでした。

人間には、苦悩を抱えたときにその思いが安らぎや希望を感じる転換するには、二つある秘訣のうち、どちらかを経験すると人間はなんどか踏ん張れると言ってくれる人がいました。
一つ目は、なぜその苦悩を生み出したのか、根本的な原因が明確に悟れること。二つ目は、原因は全く見えずとも、その苦悩の思いを瞬間的に代わって背負い、その余裕をきっかけにして、心を切り替え、もう一度向き合う覚悟ができたとき。
要するに、苦悩への智慧の眼が開くか、慈悲のある人に接して心が救われるかのどちらかしかないということでした。

正直、その当時の私には根本的な問題解決の道筋を見出せる智慧がなかったため、少なくとも出会う人の思いの機微だけはくみ取れる、感じ取れる繊細さはもちあわせてゆきたいとだけは深く決意したのです。そして、だんだんと人の個別の悩みと向き合う機会が増えてゆくことになってゆきました。

(結局、問題解決の原因は宗教家のみでは見いだせませんでした。)