更新日:2020-09-18 自己紹介雑談境大雅スタバ起業家宗教家精神世界スピリチュアル布教者専従者

制限のある自由さの中で(26~29歳)

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
制限のある自由さの中で(26~29歳)

制限のある自由さの中で(26~29歳)

かわいい子には旅をさせよ

ハワイ島ヒルトンワイコロアビレッジ(2013年撮影)

「かわいい子には旅をさせよ。」

その言葉を何度も噛みしめながら、仏弟子である以上に、仏の子として生きることの試練や修行はどこまで続くのだろうかと、どこに、どうやって、その思いを届けたらいいのかと、何度も何度も天を仰ぎたくなる心境にいた頃を思い出します。

「不屈」の精神、「不退転」の心構えという言葉は簡単に使うことができるでしょうが、私の20代・30代の歩んでいった道のりはその心を育むべき私特有なルートをわざわざ用意してもらえていたと、今の私であれば冷静に、霊性に私を観ることができますが…。

その当時の頑張ることでしか、切り開くことのできない術を知らない若人の私の道のりは、とてもとても険しく、しかし、そこを乗り越えたことで自分自身への自信とつながる経験になっていったのです。

それでは、ここからは私の20代後半部分で一番印象に残っているエピソードを元に、文章を書き進めて参りたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い致します。

初めて東北の地へと足を踏み入れることに…

みちのくひとり旅

大学卒業後、2年8か月間、私の幹部候補生としての学びを終えた最初の勤務先は、東北、宮城県の仙台市になることになりました。

しかも、その当時の教団のNO2に当たる方の特別指示で、全く教団でやったことのない人事異動を発令されることになりました。その特例的な人事配置の二年目に当たる私たちの世代も、布教職を希望する同期のほとんどが、その経験をすることになりました。

基本的に職員が人事異動で布教現場に赴任する際は、若いころには、全国を約20地域ほどに区分けされたメインの大きなまたは重要な拠点に配置されて、青年教務員という役を授かり、やることとしては、その包括されている10~20拠点の小学生から40歳前までの青年層を対象にしたインストラクター・活動や人材育成のプランナー、教会ごとの単位を超えた活動を行うためのコーディネーターの役割を担っていく選択肢しかありませんでした。布教現場に送られるだけの教育もノウハウも学びきれていない25歳程度の若者が一つの拠点にあてがわれることは、40代中盤以降に経験する管理職以外にはありえない人事配置でありました。

その方の私たちに直接面と向かって伝えてきた言葉が「大学生100人にしてこなければ帰ってこなくていい。」とだけ言われたのです。
100万人いる大都市の大きな拠点に送り出すので、そこで結果を出してきなさいということでした。
それだけ言われてからは、その受け入れを担っている管理職である教会長の一存にすべて任されることになりました。そういう意味では、十人十色で、3年間という月日をいかに過ごすかは、自分自身の目的意識と、その拠点にいる教会長の意向にかかってしまうのでした。

前にいた教団の人事異動は12月1日というサイクルで、一年間のスケジュールが回っています。真っ暗な夜の時間帯に、東京から同じ仙台に赴任されている先輩職員の方と一緒に新幹線に乗って、仙台まで向かうことになりました。

正直、私が名古屋から東京に向かってみる光景と、東京から宇都宮を超えてからの真っ暗闇、電気がついている所の少なさに驚きながら、私はどこにむかって、どうなってゆくのだろうかと、思わず、頭の中では、「ドナドナ」の歌がBGMに流れてゆきながら、現地へと向かうことになったのです。

当時、私の上司に当たる方は、基本的に本当に親分肌の気質の方で、「責任は私が取るからやりたいようにやりなさい。パトカー、消防車、救急車を呼ばれることでなければなんでもやっていいから(笑)」っていいながら、特別な役目を付けることもしないので、自分で考えて、自分でやるべきことを見出し、やってみればいいという考え方を持っていました。
一つだけ、これだけは心がけなさいと言われた最初の指導が、『「合掌・礼拝・賛嘆」のできる人間になりなさい。人は立場や肩書が増えてゆくたびに、それに従って動く人たちがいるので、いまはそれがないところで、どれだけ人と関わり信頼を深めながら、自分の心を耕せるかやってみたらいいということでした。』

人も、土地も、風土や文化を全く知らない地域で、大学生を見つけて、触れあって、育成をするにはどうしたらいいかと悩んでいた時に、ちょうど私と同じ教団職員になる大学4年生の後輩がいてくれて、東京へ上京するまでの最初の4か月間は現状の知っているメンバーと名簿を元に、道案内と、なるべく一緒に活動をしてくれるサポートを頂いていました。その後、4月以降は一人でやれなければならなくなったのですが、宮城県の約3分の2の地域を包括している拠点でしたので、北に高速を使って車で90分、南には下道を使って車で90分というエリアをどうやって足もないのに動けばいいのか、また、実際に出逢っていないけれども会員子弟の大学生世代の名簿も手にしていませんでしたので、30~40歳の主婦層の会員さんのお手伝いや少年層未就学児のイベントのお手伝い、子守などをしながら、しばらく時間だけが過ぎていったのです。
そうこうしながら、その一年目が終わるタイミングで結婚をする手配となり、パートナーの持っている軽自動車が来てから、どんどんと自分であちこち出かけることが可能になりました。

当時、その拠点には、メインの仙台市東照宮駅付近にある教会道場と、車で30分ほど南にあるその教会道場が立つ前の道場の二つに分けて、活動をしている珍しい拠点でした。

その拠点ごとに、在家(ボランティア)青年層のリーダーの役もそれぞれ配置されていて、仕事をしている青年層の方は数名ずついるのですが、大学生は、記憶するには3人だけが教会に足を運んでくれているくらいでした。学生の担当をしている方から「3年でいなくなる人には、何もやってもらわなくて結構です。こっちはなにもしなくてもいいから、南の拠点の方でやったらいい」と面と向かって言われたのでした。この言葉は相当私のやる気スイッチを入れてくれる逆の意味での応援歌となって、後々その方にも感謝することなっていったのです。

退職する気持ちを始めて抱いた瞬間…

3年間でしか触れ合えないという現実…

一年目は、今ある現状に応じて受け身的に時間を過ごしていたのですが、2年目に入ることを契機に、私の上司にお願いして、小学生から40歳までの会員子弟の情報を知りたいとお願いして仙台教会20エリアほどに分かれている会員子弟の情報を収集することにしました。

その情報を出してもらった名簿のうち、私は大学生の名簿を頂いて約100名ほどの名簿を手にしました。その次にやったことは、仙台の拠点、そして、もう一つの拠点長町から、それぞれの各家庭にゆけるだけの全体地図とお宅の周辺詳細図を用意することにしました。結局、100名のうち70名ほどが宮城県に在住し、それ以外は県外または関東へ移動している人たちもいて、私が実際に出会おうとして会える大学生が現状最大70名であることが分かりました。

その名簿をファイリングして、地図を作り、その地図を片手にお宅訪問(佼成会用語で手取り修行)をすることにしました。毎週水曜日には仙台、木曜日には長町として19時ころに待ち合わせをして、一緒に動いてくれる大学生2人から始めてゆくことにしました。そして、個人の情報と、その日に動いた記録をA4一枚の紙に残して、とにかく、本人に会えた。家族に会えた。会えなかった。そして、大学生に実際に会えるために必要な情報などを共有化しながら、まず一年間やり続けてみたのです。

仙台での赴任がちょうど2年が過ぎてできた結果が、70名のうち36名が仙台教会に足を運んでくれるようになり、22名の大学生が水・木のお宅訪問に車を3・4台に分かれて歩いてくれるようになり、勉強会と称して仏教を学ぶ機会を作れば15~20名ほどの大学生が継続して、土日に集まってくれるようになってゆけました。
閑古鳥が鳴いていたところに、人が集い、笑いの絶えない場所が、でき始めていったのです。

その出会いの中で、私がしていたことは、自宅へ5~10名のメインになる大学生を呼んでは食事会をしたり、時間を取って、それぞれの個人相談を受けることを、し続けていただけです。

その出会いを通して、私が信じて、言葉として表現していたのは、「一人一人には絶対無限の可能性があり、その人がその人としていまこの世に存在している唯一無二の存在として生きてる価値を私は信じている。」ということでした。

おかげさまで、一人のリーダー役を担ってくれる大学生を中心にして、15名ほどの大学生たちが喜んで、私と共に活動を主体的にになってくれるようになり、
気が付けば、中高生たちを40-50名程度の宿泊の教育を行えるところまでやれる、受け入れ態勢が整ってきたのです。

(後々、ここで出会った大学生たちの何組かが結婚して、家庭を持つ報告を、仙台を離れて聞いたときは、本当にうれしかったです。)

そこで、私の3年間お役目は任務完了。正直まだまだやり残していることはたくさんありましたし、人間関係を積み上げてこそできた環境から、人事異動で東京の本部へと帰らざるを得ませんでした。
(その後同じ立場で後任者が来たのですが、全く違うあり方で、あっという間に私が掘り起こしたリーダーたちは来なくなったとのことでした。)

私は、本当に上司があれこれ口をはさむ方ではなかったので、「優秀な人材を連れてきた」と後々、周りの人たちに言っていたのを耳にして、期待をかけてもらっていたのですが、本当に自由に、やらせてもらって感謝しかありません。
上司とは月に何度か自教会の2拠点に移動する際に必要な車の運転手と、朝出張がない以外は自宅から拠点までのお迎えを頼まれていました。その際の少ない時間帯ではありましたが、自分の考えてやっていることを聞いてくださり、必要な助言をして下さっていました。
そして、途中から教会の一番重要な幹部の指導会だけは参加させてもらえるようになって、全体の状況、また、その中での幹部さん方との関係も少しずつ構築できるようになってゆけました。
(上司は私の個性を理解しながら、私への全体からできるアシストを陰ながらいろいろとしてくださっていたのを、後々に私も知ることになったのです。)

私にとっては、組織活動が多くなり、行事が連続して、人とのかかわりが薄くなっている教団全体の流れに反して、個別にいろいろと自由に動けたことは、何をするのが大事で、何を優先順位にして自分が動けばいいのか、明確になってゆくこととなりました。本当に私自身にとっては、無名の無役の役で、現場に出入りできた経験は、本当に貴重な糧になっていったと実感しております。
組織活動のノウハウ、そして、個別対応ができる対話力。この決定的に必要なリーダーとしての資質を20代のうちに学び、ある程度の力量を兼ね備えられたのは、本当に努力した甲斐があったと、後々になればなるほどに若かりし自分の歩みに感謝せざるを得ませんでした。

(しかし、その当時の特別措置を行った人事施策の成果を鑑みてみますと、本当に無役で、何をやっても、何をやらなくても、正直毎月受け取る給与には変化がありませんでしたし、教団としてもそれだけの期間と人材を投入して、やった人を育てる投資をした甲斐はあまりなかったのかもしません。結局、NO2の人事交代であっという間に、その人事配置はなくなりました。)

この頃からでした、自分自身の身の置き所、やりたいことをやり続ける月日、年月を自分の判断で、自分の意志でやり続けられないような人事権をすべて第三者に預けていることの矛盾を感じ始めたのです…。
いろんな意味で、この教団という環境で生きてゆくことへの限界を否定しきれなくなっていったのは、23歳から感じ始めていて、28歳ころには、どこか次なる道のりを探さないといけないという直感を否定することができなくなったのです。具体的に動きませんでしたが、退職をしたいと同期に初めて口にしていた頃でした。