更新日:2020-09-14 自己紹介雑談境大雅スタバ起業家宗教家会社法人代表精神世界スピリチュアルbashar覚醒自覚マスターゲート師師匠バシャールワクワク

自己紹介を兼ねての雑談コラム(3)

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WRITER 境大雅(さかいひろまさ)
代表取締役
日本の覚者として、大自由を生きる 大学卒業後16年間、宗教家としての経歴を経て、2011年7月New Reality Inc.を設立。 スピリチュアルケアマスターとして、日本における覚者の一人として、 日本人の覚醒をサポートする一役を担っています。 また、101キャンドルライト(株)代表取締役、 別法人キャンドルライト内では、師より「生きた釈迦のようでありなさい」との願いの元、ID【三寶:サンボ】を授かる。 *注:三寶とは、佛宝・法宝・僧宝の三つの宝である三寶帰依に由来しています。
自己紹介を兼ねての雑談コラム(3)

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すべては我が師

このタイトルは、私が一番最初に尊敬と敬愛をもって師事した立正佼成会の開祖が書かれた本のタイトルになったフレーズです。

私は過去、宗教家という経歴を持ち、精神世界のフィールドで10期目の会社法人を経営しつつ、現在は覚者の元で自分自身という存在をマスターする歩みを極めました。

お恥ずかしながら、若ければ若いほど、私は未熟者で、生意気で、傍若無人で、プライドだけは一人前で、結果を出すまであきらめることなく、自力で、歯を食いしばって、何が何でも、無理を承知で、自分の心身を投じきって努力する人でありました。
(若かりし無理をした代償・副産物としての腰痛は、この15年間の招かざるお友達と化して、長居したままです。)

自尊心を素直に降ろして、頭を下げる、謙れる心の器があれば、もっと楽に人生を起きてこれたのではないだろうかと、振り返ることが多々あります。しかし、それは後の祭りで、いろんな経験を学びとして成長の糧にはしてきましたので、いまはすべてに感謝する思いにあふれています。

そうした私の人生の岐路に立っていた時に影響を与えて下さった恩を噛みしめながら、今日は「人に影響を与えることはあっても、影響を受けることの少ない人」と親友から言わしめた私のエピソードを少しづつご紹介したいと思います。それでは、よろしくお願い致します。

宗教家時代に私が影響を受けた方

宗教家時代での出会いの中で

過去私の大学時代から20代前半の人生は、家族を通して、本当に修羅場とか、地獄とか、真っ暗闇の中で生きていたと言っても過言ではない経験の連続でありました。詳しいことは、拙書をご一読頂ければありがたいと思います。
または、いろんなところで、私の経歴や人生経験を吐露する機会がありましたので、知っている方はすでにご存じの通りでございます。

一言でいえば、孤独地獄の暗闇に住まい。人とのかかわりがありながらも心に闇を抱えていましたので、決して人と肯定的な交流をすることができないほど、心が屈折して、人に対する嫉妬や妬み、または、自分自身に対しての無力感に苛まれる日々を送っていた時代がありました。
(しかし、ゆくゆくその先の未来になってからは、自縄自縛をしていただけで、私の世界では何も起こっていなかったという現実を受け入れるにはなかなか至難の業ではありました。)

宗教家になるという選択肢は、正直ビジネスマン、公務員等を生業として職業に就くという感覚ではとても理解できない領域であります。

今思えば、よくやったと言える部分と、そんな理由でよく人生をかけたと言わなければならない部分と、いろんな面でその時の選択を振り返ることがあったりします。
22歳の私は、「自分が出家をすることで、我が家計のカルマ・因縁が切れる、昇華できる智慧を究められるか、または、そこまでいかずとも徳が詰めて我が家の回向供養になるのであれば、私の人生を投じてみよう。」と思えて、立正佼成会の奉職者(専従者)としてのキャリアを選択したのであります。

まぁ、その世界で本当に驚き尽くしたのは、特に悟りや救いを本気で会得したいと思っている人が稀有な存在で、政治色や世俗的な価値観をもって上下関係が出来上がり、全く血縁、結縁、出世街道につながる先輩との縁も全くなかった私には、ほとんど遠回りしながら、自力で、他者からの恩恵や応援が期待できずに、独立独歩でやり抜くしかありませんでした。

また、私の身上とは全く真逆にいる人たちもいらっしゃって、奉職の選択をしている親や祖父母たちの家系で準備万端、縁故をフルに活用して、人間関係や、業務遂行を進めて行けるアドバンテージを持っている人たちがたくさんいらっしゃいました。

正直、大卒後の23歳の私でも、この先の道のりには、私が求めている究極の悟りを得るためのプロセスは、用意されていない。
そのように直感的に観えてしまった現実は、のちのちいくら努力と精進の中でレベルアップをしながら自分磨きをしていた後々でも、その結論を覆せる材料は一切ありませんでした。

そうした中でも、いくらか私の人生において影響を与えて下さった恩ある大先達がいたことも事実です。

あれは、24歳になったころのことでした、東京にある本部から布教現場の学びをするための期間として、約3年弱の幹部養成機関のカリキュラムに、1カ月半(東京)、2ヶ月(千葉)、4カ月(山梨)と1年から3年になるまでの間に、現場実習に行く機会がありました。

その二回目の実習になった際に、私がお世話になった方が東京にいらっしゃることを知り、切羽詰まった思いを聞いてもらいました。
無条件判断なしに、受容し、私の心と向き合って下さった「姿勢」に、私は人生初の体験と安らぎと瞬間的に私の精神的負荷を肩代わりしてもらって、もう一度歩みだせるという意識に大きく変化したのでした。

「人間は苦労したものでなければ決してわからないことある。(それらの経験のない者は、決して心の機微をくみ取れない。)」とだけおっしゃり、私のことを大いなる慈悲の眼で、見守り、見届けてくれている姿勢に、私は本当に救われたという原体験をすることになりました。

いつか、私もそのような人の痛みや苦しみにある心の機微をくみ取れる慈悲心のある人間になろうと決意する瞬間となりました。

このたった一つの経験が、その後の布教者・宗教家としてのすべての課題をクリアーするディープインパクトになっていたのを、後々私は自覚することになっていったのです。

私の人生において最も影響を受けた方

師とめぐり合える奇跡に感謝しかありません。

私は、過去宗教を学んでいる大学生時代から願っていることがひとつだけありました。

それは、過去の残されてきた経典や聖書を紐解くだけではなく、

私は、釈尊のような生きている覚者から、直接学びたい。

ということでした。

正直、経典の原文を見ても、理解できませんでした。ではその継承している先達と言われる人たちの姿を見ながらも、本当にそこで生きている人という感覚がもたらされる出会いも本当に全く、全然、決して、ありませんでした。

現状、選択肢がないから、仕方なく経典をそらんじるしかなく、経典の解釈が釈尊の真意があらわしきれていないと分かっていながらも、他に巡り合える機会も、情報もないまま、気が付けば30代半ばという状況にありました。

たしかに、消去法でいろんな選択肢を消しつつ、これしか残せないという限界…。もちろん、立正佼成会という団体は善良な人たちが多くいます。そして、その会を発足させた開祖という存在はたしかにすばらしい方であったとは思いますが、もう私が大学卒業して奉職をしてからは、現役から完全に退いて、二代目の会長に世代交代をなさってからの触れ合いしかなく、実際に開祖とはまともに指導をうけることは、全く叶わない夢となりました。

本当に本当に、これがベストな環境なんだろうか…。「否」という心の声だけは、私の内側からほとばしっていたのです。では、どうやって、そして、どこにあるのか?どこにいるのか?宗教家を自分の職業としてし続けながら、水面下では、自分自身のその先に向かうべき道を、切実に、必死に模索し始めていった「心」が、私のその先に用意されていた現実へとつながっていったのです。

さて、途中の経緯はすべて割愛して、
私が最も影響を受けた存在は、マスターゲート師匠です。

その一番最初に出会いをさせて頂いた動画がyoutubeに残っていますので、お時間のある方はぜひご覧になってみて下さい。

その動画のリンク先はこちらになります。

(45分10秒から45分40秒ころをご参照下さい。)

初対面の出会いで、私が会話の内容とは全く関係のないところで、感極まって涙をしている初体験となりました。

私の人生における保留にしていた課題、そして、
私の人生における悟りの究極に対する疑問や未解決の部分が明らかになりました。
私が私の偉大さを自覚するように、誘い、関わり、自分の足で実践し、自分で体得できうるようにサポートし続けて下っています。

私がいったい誰なのか?

その答えと体感は、それまでの人生では一度たりとも経験したことのない感動となりました。

釈尊の教えを通して、究極の悟りへと至り
イエスさまのみ心に触れれば触れるほどに、究極の悟りに至ったものが行くべきその先の道のりを導き出してくださっております。

過去の先達、覚者たちが成し得なかった課題を、私たちの師は目覚めえた弟子と共に、今の時代に果たそうと、成し得ようとする「神の計画」があることを見せて下さっています。
それは、自然と感じるようになっていったのです。自然と私の神聖さを自覚すればするほどに、観て、感じて、やり遂げる一員として参画している思いに溢れております。

教えずとも、自らが悟り、目覚め、気づき、自立して、自分自身の偉大さを自覚して、私らしく私という個体性を用いて、個性的に、全体性につながって存在できうること。これは本当に本当に稀有な領域で、滅多に経験することができないあることが難し(有難い)という領域の世界です。

私は、私の神秘の門を開き、自らの偉大さ、神聖さを観て、感じて、生きていられるようになってきましたので、いつも私自神と二人三脚で、自らの道を切り開いております。

本当に、真理の道を歩み続けるには、私自神という真理を生きてゆくには、まず「道を知って道をゆく」か「道を知らずば、道を知っている人と共に道をゆくのみです。」真理の迷路に迷い込み、スピリチュアルジプシーや、宗教の世界でも路頭に迷っている数えきれないほどたくさんの人たちがいることは、否めない事実です。

その先に生きて見せる存在がいてこそ、感化される「心」響き合う共鳴する「思い」が自分の中にあることを自覚できるのです。
いずれにせよ、本当にこの時代に自分が目覚めて存在するという意思が立っている意識たちは、おのずと導かれるようにしながら、共鳴の渦へめぐり合ってゆけますから…。

「覚者」たる威風堂々として姿勢、
凛として迷いのない在り方…

出逢えば、おのずと自分の魂に、心に響くものがあります。本当の出会いには…。
私はまず受け取る側の体験をしてきましたので、これからは渡せる側の立ち位置にて、共に自覚の道、目覚め、覚醒の道を歩んで行ければ最高です。

今日も、最後までご一読頂きまして、ありがとうございました。

また、近いうちにこのコラムにてお愛できますこと、楽しみにしております。